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倒置とダブルミーニングで歌ってみろ伝説

花=桜は常識な(´・ω・`)

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
古今和歌集(巻二)春下・113、百人一首(9番)ですけど。
この歌けっこう凝ってますよね。
古典で花とだけいえば桜。
で、京都の桜もそろそろ佳境を過ぎようとしている感じかな…。

京都駅からすぐの七条あたりの川端通と鴨川の間。

ある程度大きめな河川の上空って、雲や光の動きもわりとあったりして。

川端通から階段を降りて鴨川沿いに出れば、川端通の桜をちょっと見上げる感じで歩けます。

鴨川沿いを歩けば、たまにこんなカワイイのと出会うことがあるかも。

光のあたるところと影になるところ、下から見上げてみる桜もいいですよね。

光と影と、根っこが伸びていくみたいな広がり方だった雲の動き。

春の鴨川のお昼下がりの雰囲気、ボサノバのお姉さん唄めっちゃ上手かったです。
四条通周辺で強制的に聴かされるのとは大違いで、本当にプロなのかもしれない。

上の写真で奥に見えていた橋がこの橋。
桜と和装の親和性の高さは特別なものがあるかも、とてもまともな着物とはいえないようなレンタル着物ですら洋服よりもはるかに絵になる気がします。

もう桜もそろそろ終わりかもねーとは思うんだけど、蕾がたくさん残る枝垂もある。

ここの鞠のようなの、陽があたってかわいらしい色、こんな姿なのはきっと今だけ。

鴨川沿いの桜って何種類かあるし、まだ蕾しかない枝垂もあったので、もしかしたらもう少しだけ楽しめるかな〜と。

 

ところで、小野小町の歌というか詠ですけど…。
春の長雨が降っている間に、桜の花の色はむなしく衰えて色あせてしまった(恋や世間の諸々のことに思い悩んでいる間に私の美貌が衰えたように…)というような歌ですけどダブルミーニングの仕込みが多いというか。

ダブルミーニングといえば文字どおり double meaning なんだけど、詠の世界では「掛詞」と呼ばれます。

古典で花と書いてあれば桜、花の色は女性美のこと。
「うつる」花の色は、時間が経って衰えるという意味の含み、「けりな」の「な」ってのは衰えちまったなあ…っていう感嘆というか。
むなしく、の形容動詞「いたづらなり」の連用形が「いたづらに」。
つまり、私、むだに衰えちまったな…、って感じで。

「世にふる」の「世」は、世代と男女仲の掛詞。
「世にふる」の「ふる」は、(雨が)降ると(時間が)経るの意味。
世にふるは掛詞と掛詞。

ながめせしまに、の「ながめ」は「長雨」と「眺め(物思いして俯瞰)」の掛詞。
長雨の間に、物思いに耽る間に、のダブルミーニング。

降り続く長雨の間、物思いに耽っている間に歳をくっちまったなあっていう自分を表現して、わが身世にふる、と倒置してあります。
古典の詠って、こういうのを自分のクレジットをつけてソロでやるわけです。

形式を整えた少ない文字数と言葉に意味を込めて美しく仕上げる、あの時代の芸術なのか高度な遊びなのか文化なのか風俗に過ぎないのか知らんけど、あんま馬鹿だとどうしても直接話法が多くなり、知性がないとこんな歌は作れません、サーセン。

で、漢詩や欧米の詩では母音でリズムよく韻を踏むことが常識。
でもそれは単純な連呼や掛け声とは違うし、最近耳にするような「アベハヤメロアベハヤメロ」みたいなのは韻を踏んでいるのではなくてただの連呼で、「ハンターイ!ハンターイ!」と一緒。
多人数の団体でなく、もしソロでやってもただのきちがいにしか見えないと思います。

連呼って韻と違うものだし、直接的でひねりもなくて、ああいうのは漢詩や欧米の詩とも日本人の歌に対する感性とも違って、やっぱあれなんじゃないか、そっち向きでちょうどいいんじゃないかなと思う今日この頃。
こんな感じで。


京都にもこのての人が実際にウロウロするわけで…
めっちゃ迷惑。
うるさいだけだから平和極まりない三条や四条や河原町や八坂神社の前とか京都駅前とかそこらうろうろしないでほしいですね。

お京阪の出町柳駅から出てすぐ隣の叡山鉄道に乗って市原駅で降りると、すぐ目の前に通称:小町寺(本当の名前は「補陀落寺」)があります。
そこに小野小町お墓があるのでちょっとはリスペクトしとくのもいいかと。

今からでもやり残したことをはじめてみろはじまったな…(´・ω・`)

お買いもの忘れはないですか?

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