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そろそろ最近読み直したものについて一言いっとくか

たまに読書いいよね…(´・ω・`)

まあ本を読んだり写真を見入って鑑賞したりして、そこからピボットになる何かを感じたり、ぶん殴られたりするかしないかだとか、何を養分に得られたりするかなんてものはみんなそれぞれ自分の状態によって違うものだろうし。

そもそも他人様に向かって偉そうに書評みたいなことは書きたくないし書かないですけど、読み物やら他者の作品ってのは、それぞれの感じ方や考え方の違いやら同じところなんかを発見できて純粋に楽しいのですよね。

たくさんの写真を撮った。
撮る手を休めて、そこで起こっていることを考えようなどとはしなかった。
私はあまりにも深入りしすぎた。

「セーヌ左岸の恋」によせて
– エド・ヴァン・デル・エルスケン

セーヌ左岸の恋ってのはこれ。

…というプロローグで始まるのが、

本当はカメラやレンズのことではなくて、写真そのものや、写真集や、写真家の生活の話をしたいと思っていたが、そんな雰囲気ではなかった。

小林紀晴さんの写真学生って文庫本。
これはなんていうか読み物としても純粋に面白くて。
時代や気持ちが手に取れるようなリアリティがあって、なんかニヨッとする。
京都にも具合のいい感じで掃除のバイトなんてあったら inali もやりたいわ…。
とかね。

大学に写真学科があって、寮にいる友人が現像の処理のため流しっぱなしにしてる水道をそこの管理人の雇ってる小間使いさんが勝手に止めててキレてたりしてたのを思い出したりした。

 

どこでも置かれている本の基準ってなんやろ?
ところで、市の図書館なんかだと、特に写真ジャンルともなるとけっこうな感じで品揃えが極端に偏ってて、必ずしも読みたいものや観たいものなんかがあるわけでもなくて。
なんらかの意思が介在してんのかって思うくらい、むしろ徹底的になかったりするんだけど、だいたいどこにも漏れずにあるのが土門拳の作品。

「絶対非演出の絶対スナップ」といえば土門拳。
土門拳氏の写真ってなんかソリッドな印象が強くて、好き嫌いが激しいのかもしれないんだけど、ある意味これほど誤解されたままでいる写真家はいないんじゃないかとすら思う。
別に inali は土門拳さんの大ファンでもなんでもないんですけど、いてもらわないと困るくらいの個性の存在。

 

ここからの囲いは妄想のはじまり。

常に流れ揺れ動く時代の中に何か本質と呼べるものがあるのかな…、知らんけど。
カメラマンとか写真家というとなんでか知らんけど、まず事実関係を紐解いていったらとても筋の通らないような極端な左巻き思考だとか、アングラだとか、そういう人がわりと多いじゃないですか。
とはいえ昔は軍や GHQ の仕事をしてる方も多くて、そういうことへの従属やら反発やらいろいろ思うところもあったりして、カメラがわりと民生用の普及価格帯になってくると同時に、それを使っておらもやるべ、みたいな感じでどうしてもどこかに偏ってきたりしてくるムーブメントが起こり得るのは仕方のない事なのかもしれないんだけども。

でも土門氏なんかは思想的に右や左に極端に振れて偏ってしまってるわけじゃないというか、国連なんとか憲章のあまりの綺麗事に反発して、アンチテーゼであの写真撮ったったんや、みたいなところだとか、仏像の表情が変わるまで1日中光線の変化を待ってるとことか、プロなんだけど、今の時代のように瞬間的に消費されていく商業写真とはちょっとちがうというか、なぜかわかんないけど棟方志功とイメージがだぶるような一途さを感じるというか、そういうとこは普通に好きだったりする。

綺麗事に対して現実を突きつけてやるって態度は、作られた演出を押し出してそれを既成事実化しよう、みたいなプロパガンダやオルグのためのツールとして写真を利用してやろうというような魂胆というか計算高い下心とは真逆の、純粋なアンチテーゼですよね。

そういう意味で今だに左巻きの人らは不誠実というか卑怯というか、初めから保険かけたように特定の人たち相手のクローズドマーケットを狙ってそこ用の作り事をせっせと作って、それで喰おうとしてたでしょというか、まあプロっちゃあプロ、そんな気がした。
物事を一方向から見ずに、あえてどこからでも見るような型にはまらないニュートラルな立ち位置の方がこわい存在になれたかもしれないけど、喰うという現実のためにはクライアントの願望ありきで仕事仕事、戦後新聞も左傾化だし、そういうのがウケるし喰えるしネタも多いし、妥協して安住、みたいな感じで。
知らんけど。

 

流行ってなんやろ?
で、その頃の時代ってちょうどピクトリアリズムの呪縛から完全に解放されていくような過渡期、リアリズムの始まりの頃なんだけど、まあなんだかかんだ言ったところで喰うためには流行に乗るのも大事というか乗らざるをえなかったのかもしれないというか。

といっても、どういう立ち位置であっても今のように SNS でウケる目的で非現実的なまでにポストプロセッシングで趣向を凝らしたり、色を大げさ目にコテコテにいじったり、HDR でドヤ!みたいな、いわゆる「いいね!」を集める目的の誰かに向けた観賞用にする行為とは異質の、個人的にはもっと自分の欲にストレートな、テーマ性のインパクトが命というか、ただ技術的に可能になった部分を拡張して表現してやったんだ、というのとは違う部分というか、写真家の写欲の原点のようなものが確かに絵に存在した時代だったんだという印象。

もちろん昔の時代のモノクロ現像だって「趣向を凝らしたポストプロセッシング」であることには変わりないんだけど、そのベクトルは違うというか、そういうところ。
まあいずれにせよなんらかのジャンルが確立されていく時代の当事者であることだってのは変わらないんだろうけども。

 

ドヤ! → イイネ! みたいなのも、その他もすべておまかせの機械化になる
極端な話、ただ風景を撮って CG みたいに合成して表現するだけなら、この先おそらくは AI(artificial intelligence) の部分を持つようなソフトやカメラなどの出現で、マシン側で自動でやるようになる部分が一気に進む流れになるんだと思う。

いまのフォーカス位置を後で変えられますよみたいなのも、あれはちょっとした失敗からのリカバリや修正や後出しの企図変更を手助けするのを狙ったものなのかもしれないけど、そいうのに馴染んだり頼ったりするようになる頃には、撮る時の撮る人の意図や注意力もだんだん希薄化して、本当の意味ですべてがポストプロセッシング(その処理も機械チョイスのオートマチック化で)前提に移行していくんじゃないかな。

仮にものすごく処理の速い撮像素子や CPU やチップや記憶媒体ができて、シャッターを押すだけでチルトやピッチや異なる深度や異なる焦点距離や異なる画角や異なる露出やWB含めた複数枚のものを一瞬でブラケット処理できるようになったとしたら、人間のやることってすべて適当でよくなって、本当は意志が介在していた部分でさえも、いわゆる撮り目じゃなくて全部出た目にだんだんと変わってきちゃうんじゃないかなと。
で、そんかわりストイックな人にとっては後で膨大な枚数からのチョイス沼、その他の人はチョイスだってマシン任せで一発ポン状態、みたいな。

そうなってくると意図とか観察眼よりも、とりあえず、あ、撮ろうか、って思ったらシャッター回しとけ(押す、ではなく)、みたいなビデオからの切り出しみたいな感覚になるのかもしれない。
で、悲惨なことに、人間はそれにさえ食傷気味になってすぐに飽きる。
そして次。

ていうか全部極端なその先の世界の妄想だけど、たとえば人間の可聴域を越すようなレンジも再生できる超レンジの音源と再生装置ができたって、過去のソースはありふてれて特別感がなく凡庸だし、新しい原盤を作ってもそっちは実際そんなにニーズがなかった、だからやっぱり可聴域の分解性とか音質をもっとぐっとよくしたものを作ろうやみたいな流れに戻るって感じで、あり方を変えるのではないところにへ落ち着くのかもしれない。
もはや何をしたかったのか、みんながよくわかんなくなる時代かもしれない、みたいな。

 

もちろんそういうことをやらないで、あくまで自分が撮る、撮るのは自分でその思いはレンズチョイスで表現させる、それを楽しむ、みたいなのがポリシーのメーカーだって存在し続けるとは思うけど。
そうなると、撮るという行為の原点がブレてない会社の商品のなかでもプリミティブな部分が強く残るものが注目されるのかもしれない、たとえばコンビニにある写ルンですだとか、人間がやらなきゃカメラは何もしてくれないレンジファインダーのデジタルMライカだとか、それを使って出てきたものの結果=そのカメラの構造的限界という制約の中での表現とか可能性だけど、それはオートマチックである部分が大きく排されている、撮ってる人の属人性にすごいこと依存するプリミティブな部分が強く残る、なんだこれっていうカメラだったりするのかもしれない。

でもどの時代の流行も、すべてのものはいつか昔の彼らの世代が否定し離れようとした古典ともうべきいう立ち位置へと、ところてん式に押し流されていくのかもしれないのですけどね、気がついた頃には実はロートルだった、みたいな感じで。
今もうライカとレンズで家何軒買えるとかそんな時代でもないですし、今のカジュアル&キャッチーのその先に何が来るのか、もしかしたらフールプルーフ&イージオペレーションで究極のマシンプロセッシングなのか、それとも Back To The Egg なのかって感じでちょっと先のことが興味深いというか。
てかそんな時代まで生きてるかどうか知らんけど。
世の中って歴史的にはいつも決まってやりすぎたら必ずその揺り戻しが来ることの繰り返しだし、人生はローリングストーン。

…ここまでが妄想でした、サーセン(笑)
てことで、正気に戻ってみる。

 

そもそも20世紀を代表するってなんやろ?

決定的瞬間だけを撮っているわけでもないけど…

常に動いている世の中を、我々は受動的に見ているだけで、唯一何かを想像する時間といえば、シャッターを切ることでその動きを止める1/125秒だけだ。

「決定的瞬間」で有名なアンリ・カルティエ=ブレッソンは20世紀を代表する写真家であると評されているフランスの写真家。

絵画とシュルレアリストに傾倒したり、ドイツ軍の捕虜になったり、そこから脱走に成功したり、フランスのレジスタンス活動に参加したり、のちにロバート・キャパらとマグナム・フォトを設立したり、知らない人はいないだろうという存在のレンジファインダー使いのスナッパーで、50mm使い。

ルポルタージュのために支那に訪れていた時の MAGNUM PHOTOS.の名刺には、「萬百昇」て書いてある。
HENRI CARTIER-BRESSON てどうやったら 萬 百昇 になるんだろ?、て感じ。

エセーだけど、幾何へのこだわりやら作風への反映なんかもよく分かる感じで。

てか相似形態が好きなんでしょうね、メイン被写体と背景にあるものの相似とか、そのリフレインとか、そういうひねりにひねったものが誰にでもわかるように、あるいは隠し絵のように仕込んであるとか多い気がする、瞬間を切りとってるスナップなのにそれが仕込まれてる。

その相似形態はカタチとカタチだけでなくて、例えば色と色であったり、意味と意味であったりその複合であったりもするんだけど。
当の本人はいちいちそういうことを意味付けして解説しなかったと思うんですけど、それを 1/125秒 でやる眼を持つ方というか。
超観察力というか、一瞬で発見するスピードと収めてしまうアクションの時間の短さがものすごいんでしょうね。

たとえばエリオット・アーウィットなんかも神官の白い服に白い鳩、それは同時に神社にいてともに神使というか、仕えるものとしての括りでも収まるみたいな感じの幾何というか、おばちゃんが背中かいてると同時に犬が背中かいてるみたいなメイン被写体の形態と形態とか、実は似たことをやっているのかもしれないし。

一方、パリ市庁舎前のキスで一世風靡した有名なロベール・ドアノーの恋人たちの写真は、実は後からモデルになったフランソワ・ボネから、あんなに売れたポスターは私がモデルや、モデル代請求!って感じで訴えられて、それで決定的瞬間を撮ったものではなく、ヤラセというかこの女性らに頼んで演出されたものであったとバレちゃったケースだったりする。

しかもロベール・ドアノーといえばアンリ・カルティエ=ブレッソンからマグナムに誘われて断ってる、世の中はなんていうかシュール。

「私は物事をありのままに撮らない。こうあればいいと思う世界を撮っているのだから」
まあやらせとはいっても、撮るべきものが見えていて撮ったものが実際に評価されて人気になったわけだし、あれはまさに、こうあればいいと思う世界を創造して撮ったもの。

ドアノーってどの写真も、いつ見てもすごく綺麗なポスターみたいに整理された構図ですよね、エリオット・アーウィットなんかもスナップのわりにはそんな感じというか、もっと前後を意識させる撮り方をされたものが多いかとは思いますけど。

これはジャケット用にトリミングされちゃってますけど。
元の USA. California. 1955 ってポスターなんかは作ったんだろうなって気がする。
まあアルフレッド・アイゼンスタットの勝利のキスもぶっちゃけそんな気がするけど…。

 

あとこれ、これは人を撮ってるわけじゃないけど。
観光客で溢れかえる今の時代、ひとりで庭にいる機会を得るなんてことは一般の人にはなかなかできないだろうけど…
連絡先など書かれてあって、今も日本に在住されてるんでしょうか?

ジョニー・ハイマス氏が Linhof Technorama 612 – PC 2 と Hasselblad 500C を使って日本の庭を撮ったもの。
このまえがきに書かれた部分がとても素晴らしいんですよね。
そこにあるとおり、日本の庭に対してしっかりした独自の感じ方を持っていて。
その感性にまず驚きを禁じえないというか。

 

日本の庭のことに詳しい人なんて、日本でもマイノリティかも?

かつて中根金作氏が、日本の若者より外国人の方がマシ!とかご立腹されたりしてたのもさもあらんというか。
庭への造詣ってのは何人であるかだとか、そういう部分はあんま関係ないんだろう、精神の有りようというか、知るために学ぶ情熱というか、感性というか、元々の素の資質というか。

まあ日本人が日本の造園のことをよく知らない、つってもそれはねえ…
庭に関心を持ち得るにしても、それにはまず触れる機会の有無、これだと思うんですけど。
事実、日本人の若者だからといったって、果たして日常にそんな機会があるのか?、と。

少なくとも、親父の通勤の利便性だけで選ばれた場末混じりの新興住宅地で育った自分の場合は、そのような機会は一切なかったと思うんだわ、それはもう犯罪的なくらいにない。
教育の中で、故意に遠ざけられてるんじゃなかろうかとすら思うほどなかったですよ。
皆さんはそういう機会がありますか?、あなたもきっと無いんじゃないかな〜、知らんけど。

で、あんま若い時って、みたこともない京都の庭なんて、まだ経験の範囲が狭く、まだまだ浅い世界感しかもちえていない自分の興味関心や想像の範囲外の世界じゃない?
そもそも、知り得てすらいない未知の世界のことかもしれないんだし。
さらに、非公開の庭ともなると普通にほとんどの誰もが見たことすらないはずで。
何らかの情報や、体感するきっかけが得られていない限り自然発生的にハマらないですよね?

そんな状態の人と、強い興味関心や造詣や洞察を持つような、さらに中判カメラ2台持ち込んでそれを写しとりたい情熱と行動するための資力と時間を作って持つような、外国人のうちでも稀な存在の人との比較や、熱心に学ぼうとする外国人の学生なんかと単純に比べるなんて正直どうかと思いますけど。

ていうか、実際某国からの留学生で、俺は国費留学生だ、兩班だとか踏ん反り返ってた人なんて、実習に於ける作図も「はあ?」っていうレベルだったし、特別な意欲も才能もなく日本語もまともにわかってんのかどうか怪しすぎだったけど悪い評価がなかったりですね、腫れ物に触るような感じで下駄履かせてあげてる、みたいなね。
国費留学生だつってもそのカネ出してんの日本国なんだよ、実力があってわざわざ学びに来たとは思えないというか、こっちが騙されてるみたいなバカみたいな話だってあるわけで。

まあ今の京都に来て、名刹や神社等にある名庭を観ようとしたって、静寂の中にある京都なんて今はもうないんですよね、ほんとうにないんですよ。
とてもじゃないけどその庭の意図や意味を知り、そこから更に何かを感じとれるようなところまでは精神的に集中できないというか、ぶっちゃけ遊園地と区別の付いてない中国人らが団体で大騒ぎしてるだけってのが常で、うんざりするだろうし。

おそらくその人たちと同じようなレベルで、襖絵がすごいなー、だとか紅葉がきれいね〜みたいな感じでみんなそこで終わりなんだよきっと。
いいとこレクチャーの受け売りになるか、それだって時間とともに忘れるんじゃないかと。

造園学ってのは体系的でそれはアカデミックなものだから、きっかけにはなっても観光だけでそう易々と得られるものじゃないはず。

そもそも作者や発注者がどんな意図を持った何者であったのか、作庭の意図や体現したものの意味やらその精神的な背景や時代背景などのバックグランドも予備知識として時系列に沿った形で知った上で整理できてなきゃいけないだろうし。
京都ってもうず〜っと都だったわけだから、そんなのが際限なくゴロゴロしてるんだし。

そうでなきゃ、これは誰々が何時代に作ったもので〜、っていう興味本位的なものか観光ガイド的な見方以上の感じ方なんてできないかもしれないじゃない?

だから開眼させるような役目の人が必要なのに、中根金作氏はもう故人。
ただし著書は多くあります、それはきっと日本の財産。

まあそんなもん学んだところでじゃあ日本庭園作ってくれなんて注文くれるようなクライアントなんてきっとほぼどこにもいませんし、それで喰ってけるわけもないでしょうけどね、教養としてはありだと思います。
だって日本人が自分達の国の文化を知らないのは不自然じゃない?
まあただそれだけなんだけど。

たまに読書して、自分とは違うものを見るんだ…(´・ω・`)

お買いもの忘れはないですか?

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