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シャボン玉の子供がいない狸橋化する世界

「狸橋行ってくる」って感じで(´・ω・`)

突然だけど、なんか秋田美人て、本当に美人だな〜、と。
ここは古美術店が連なる新門前通の近くなんだけど、いまちょうど何必館で「昭和という時代 木村伊兵衛展」が開催されているところみたい。
ライカといえば木村伊兵衛、って感じで、よく知られた作品が多い。

まあ女好きでも有名だった木村伊兵衛氏のことだから、きっと美人を探して撮ったに決まってるんですけどね、て、知らんけど。

これはそのすぐそばの白川、新門前通から新橋通の方を見たところ。
ざくろ?、がたわわに実ってるなあ〜、なんて思ったら。
祇園「吉いし」のところにまたいつものアオサギがいてたりして、なんか和む。
なんて贅沢な…。

そこからちょっと行けば有済橋ゆうさいばし、そこにもアオサギがいたんですけど。
橋を通りすがりの女子中学生の連中に「うわあ、キショい」とか言われてて。

この鷺はここらでよく見かけるアオサギの中でも特に飾り羽が美しいタイプなのに。
まあもっと大人になれば生き物の存在の愛おしさをわかる時が来るのかもね、知らんけど。

アオサギの黒い色の所って、青空が反射すると確かに青っぽく見える。
inali 的にはこんなに目の前の、ほんとうにすぐ近くに生き物が当たり前のようにいてくれる、そんな世界が大好き。

でもね、よく見てたらどうやら左の羽根を大怪我してるみたいでどうしちゃったんだろ?
獣医さんは野鳥も保護してくれないかな、これは辛そう、骨折してるのかもしれない。
う〜む。

 


ちなみに有済橋って、中国の儒書「書経」に出てくる「必ず忍ぶ有りて、其れ乃ち済す有り」ってところからついた名前らしいんだけど、なんで「書経」なんだろ?、って思ったら、もともと粟田小学校と統合されて白川小学校になった有済小学校の校歌からとられたものみたい。
校歌どころか学校名そのものやん、て感じだけど。

で、その白川小学校も近隣の新道小学校、六原小学校、清水小学校、東山小学校と統合されて、ついでに洛東中学校、弥栄中学校ともくっついて、開睛小学校&開睛中学校という小中9年間の一貫教育校になって、その敷地は洛東中学校の跡地なんですよね、ややこしい。
…ていうかぶっちゃけ子供減りすぎ、増やせないとマズいじゃね?

有済ゆうさい済す有りなすあり、まあ学校教育らしいっちゃあそうなんですけど、つらい事に対しても耐え忍び努力すれば必ず報われて成功する、という本当のようで嘘かもしれない、不確実性をすっ飛ばした精神論で諸刃の剣みたいな、ね〜。

必ず成功する、という信念は大切なことだと信じたいけど、現実のプロセスも運も大事だし、それで結果が出ないまま寿命が終わることを受け入れざるをえない時にはありのままを受け入れるのも大事かと、正直どうやってもクソみたいな人生だっていっぱいあると思うし。
そういう意味では般若心経の方がマシじゃないかな〜、とか。

 


有済橋の近くの白川北通が新門前通と古門前通の間の「なすありの径」で、これも有済ってところから来てる、小学校は廃校・統合になったけど名前は広がった、みたいな。
てか、碑も駒札もまっすぐに建っていないのはなんでだろうか…。

駒札のすぐ横にあるお地蔵さんは「なすあり地蔵菩薩」。
ここのお地蔵さんは昭和29年の水道管工事の時に白川の川底から掘り出されたもの。

「それまでの何百年の間は暗やみの世界でジットたえしのんでおられました」
ジットってところだけなぜかカタカナなのがじんわり来るんだけど、中村さんこれはすごいわ、見つける使命を負っていたかのような出来事。

なすありの径沿いの白川の風景、こんな感じで白川に小さな橋が架かってる。

お地蔵さんから歩いて数十秒で到着するのが狸橋、他の橋はただ建物と繋がるだけのもの。
狸橋は新門前通と古門前通の間の通りにある橋なので、そこを渡ればちょうど街の雰囲気が変わる境目のようになってるところ、というか、なってたというべきなのかも。

ひと昔前はもっと極端にそんな感じだったんだろうけど、今はなんか小綺麗になってる。
で、なんの門前通なのかといえば、ここは知恩院の門前なんです。

祇園の酔客が景色の変化に「ばかされた」みたいに感じるから「狸橋」って名がついたのだ、とかなんだとかよく書かれてますけど、祇園にはそんな感じで雰囲気が大きく変わるところは他にも幾つかあるような気がする。

まあ狸に化かされたとか蛤が蜃気楼を作り出すとか思った時点で、すでに酔っ払ってる証拠。
そんなありふれたことよりも、酔っ払ってるだとか「狸橋」だとかといえば甲斐扶佐義氏じゃないですか?、「狸橋行ってくる」って感じで。

でも、なんかもうその当時と比べて狸橋界隈はわりと様変わりしていて、みんなでシャボン玉遊びに興じたりだとか、縄跳びではしゃぐ女の子なんかはいなかったわ…。
てかキノコしかいなかった。


甲斐扶佐義氏のストリート写真は(ていうのかな?)その時のその情景、もう見られないのかもしれない京都と人がたくさんあって、なんていうか、本当にウロウロし続けてないとできないストロングさというかパワーがあるというか。

で、京都という器の姿を撮るんじゃなく中の人のその時を撮ってるところが強く出てて、そこがすごい面白くて。
撮られた絵もだけど、それを撮りに行ってる眼とか意欲を感じるというか。

だけど今のような時代、モデルを用意してライティングして「キメ」みたいな、作り物の商用撮影みたいなのじゃなくて、ストリートで作り物じゃない人らが自ら演じて社会に向かって晒してるその素の姿を撮ることや、それを作品として世に出すことってのはいろんな意味でほんとうに難しくなって、もうあの時代のような大胆なことはやり難いのかもしれない。

 


…てことで、なすありの径から東大路通に出る。
「門前白川道。右、きく屋ばし」、この道標はいつからあるものなんだろ?

このひとつ北側が古門前通で、知恩院前の信号のところ、徒歩20秒くらい。
菊屋橋の真前は知恩院前というバス停で、白川はこの橋の下をくぐり東大路通の下を通って北に折れて知恩院の旧参道へと続きます。

下の写真ではちょうど自転車の人がいるところあたり、門の手前に見えている橋の下が白川で、その北側にあるのが一本橋。

古門前通から門を通っていくのが華頂道かちょうみちで、そのまま行けば知恩院です。

行者橋(白川一本橋)あたりの柳は夏と比べ大幅に剪定され、妙にスッカスカで。
でも人が入るとこんな感じで、とても幸せそうな風景。

手をつなごう。

そういえばうちはまったく甘えさせてもらえなかったのだなあ…、これ地味に辛い。
独立心を育むとかいってベビーベッドにほったらかしでずっとベッドメリー眺めさせてるだけとか、スパルタ教育だと称していつも殴って怒鳴って育ててたら子供はまず壊れます、そういうのは是非やめましょう。

でも実際そういう本が流行ったりしたらしいんですよね、なんていい加減で無責任な。
獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすだとか、ライオンがそんなことするわけがないんだよねキチガイじゃあるまいし、少し考えれば馬鹿でもわかりそうなことだけど、今の医療デマ本の放置みたいなものかな…。

 



 


一本橋をわたると古川町商店街がすぐそば、徒歩15秒くらい。
商店街側から橋をみるとこんな感じ、この細さだから夜酔っ払ってると落ちる。

ただ、ここら周辺は狭いのに抜け道に使う車が多い。
華頂道から知恩院よりも、新橋通から知恩院道のルートの方が目立つしメジャーなんですけど、そっちは中国人団体だらけだから、夜でも人が多くてうるさい。
団体じゃない人たちはうるさくないのにね。

 



 


このあたりは結構どこも近くて徒歩が最強、チャリだと止める場所にもちょっと困る時代。



大昔に書かれた書経しょきょうの中の一部がいくら立派でも、現実には中国なんて焚書坑儒で本を燃やすような習わしで、そこに書かれていた思想は次の時代にはさっぱりなかったものにすることの繰り返しで、変えても変えても一緒だし、今だって現にあんな状態ね。
ぶっちゃけ人の世は生まれたらいつか死ぬ以外に確実な事なんて何もないのかな〜と。

ところで、昭和といえば、「昭和の風景」東京都写真美術館編ってのがあって、そこにほぼ日本の有名な写真家や写真作品がとりあげられてます。
その中で、木村伊兵衛といえば inali 的にはやっぱ「東京裁判」の1シーン、あの時代のあの状況下のあの場所で、すごい面白いタイミングで撮ってるんだなあと思います。


やっぱね〜、子供の数がもっと増えるといいなあ…。(´・ω・`)

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