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球技禁止公園は現代日本を象徴している

虚無からの飛翔はあるのか?(´・ω・`)

ここはただ通り抜けるだけか、ベンチに座るだけの公園。
通りに挟まれていて、広すぎも狭すぎもせず、ちょうどいいサイズのポケットパーク。
…それは、うまく行けば誰にもヤイヤイ言われない場所なのかもしれない。

球技禁止公園でのひと時。
洋梨のようなものがたくさん実っててそれが地面に落ちている、シュールだ。
大きさも色も形も洋梨みたいだけど、カリンの実だったりする。

おじさんやおばさんが東西南北にぽつんぽつん座ってるだけの不思議なスポットでもある。

空は秋の色が始まっていて、紅くなったものから落ちてくる。

こんな真ん中のスペースなんて、いっそ枯山水にしてしまえばよい。
別にイングリッシュ・ガーデンでもいいけど。

風が吹けばトウカエデの紅い葉が舞い、シーソーの下は賑やか。

若い人はたまに通り抜けるだけ、まるで抜け道みたいに使ってるような感じ。

ほかには球技禁止の看板がいつくかと、鳩、猫に餌をやるなの張り紙がいつくかあって。
子供といえば、母親に連れられた幼児がひとりいただけ、ちびっこなんていやしない。

秋色の吹き溜まり、そこにはちょっとした陽だまりと風が同時に存在する。
ちいさい秋は物悲しくはなく、ちいさくて可愛い、だからマイナー調ではなく明るい。

 

虚無からの飛翔 – マハヴィシュヌ・オーケストラ
Between Nothingness & Eternity – Mahavishnu Orchestra

 

で、この公園には真新しい自販機があってもゴミ箱がない。
しかし、まだ導入されて間もないように見えるはずのきれいな自販機はすでに使用禁止。
そのかわり、災害時にはジュースが無償提供されるらしい。
…不思議。

さらに、滑り台でアイスを食べはじめるおじさんが来た。
なぜおじさんが滑り台の傾斜に座ってアイスを食べるんだろう…、シュールだ。

壁際に金木犀の花がたくさんあるのに、ぜんぜん香ってこない。
よく見たらまだ全部蕾だった。
金木犀よ香れ、と願い、その場を去ったのです。

表情は顔だけに現れるものでもないだろうし、子供は大人の背中を見て育つらしいし、かっこいい背中になれるよう生きたいものですね。
知らんけど。

 

この近くの美味しくて人気のおでん屋さんが開くのは、17時を過ぎてから。
味がある看板をよくみると実はくっそかわいい、犬の目玉の方向とか。

天気予報によれば本当は雨のはずだった。
そういえば球技禁止公園のベンチも、ほんの少しだけ雨水で濡れていたけど。
昼過ぎからはわりと晴れて、夜になると月がきれいな日になった。

なんでもっと空が入ってないかって?
それはこの橋の東隣に国道24号が宇治川を跨いでいて、それがものすごい邪魔な低い上空の障害物になっているから。
それで縦向けにはできないってのと、水面の反射が足元まで伸びて来てて、目で見たときにその明るさが醸す雰囲気が素晴らしかったから。

 

それで、へんな欲が出た。
水面の一番明るいところでぶっちょん切るのは嫌だ、それが減衰していくのがわかるところまでギリギリ手前まで入れたい、でも欄干が入るのはイヤみたいな感じで。

で 50mmなので構図がとても不細工。
単純に、いろんな要因で失敗することはあっても、今回はただそれだけでなかった。
思ってるところとこんだけ乖離したものが出てきたことはあんまりなかったことで、結局、自分のテーマである「胸かきむしられるような何か」は捉えられなかった。
ほんとうは、そこに強烈な月の光だけが作り出している、むわ〜んっとしたような明るくて妖しい世界があったんですよ。

暗い中、欲が出たときこうやって捉われすぎたりして焦って迷うと失敗するわけで。
月のサイズはより小さくなるけど、28mm くらいまでなら構図的にはすべてがきれいに収まったのかもしれない、でもそれをこのサイズでみると風景としては入るかわりに、きっとあの妖気が映り込まないというか写せないような否定的な気がした、もっと信じてみてもいいのかもしれないけど。

月を観る橋と書いて観月橋、そこの上を歩いてて撮ったんだけど、この間の雨の日のように橋の下に行けば、きっと空はもっと撮れた、でもそうすると宇治川の水面に映る月のあかりの反射がぜんぜん見えないんだな〜これが…。

 

観月橋の名前の由来は、この橋からもうちょっと東へ徒歩15分くらいのところにある月橋院(指月山月橋禅院)で豊臣秀吉が催したといわれる「月見の宴」からつけられています。
風流なのは橋の名前だけでただの現代の橋、いまはもう指月山月橋禅院からも道路と道路沿いの建物しか見えませんけどね。

こんな日はそう滅多にない、でも、月はまんまるではないかな…。
もっと大きなスーパームーンは 11月14日らしい。

地上の出来事なんてのは本当はどうでもいいことなのかもしれないな〜。
どうせみんな順番にいなくなるんだし。
でも生きてたらお腹がすくし眠たくなるし動けば疲れるし、時間が経てば経つほど老けて弱っていくんですよね、太陽の恵みだけでは生きていけないなんて、どうにもならんな。

 

で、この件に限らずのことだけど失敗ついでにあとから考えると、最終的なプリントサイズの縮尺がほぼ自由である写真であっても、その構図バランスってのは単純に分割線などに代表される配置的なバランスの整理だけではなくて、最終的な実サイズに応じたデザインの要素や要因の関係と同じように、最終的な写真の実サイズと相性のいいスケール感での表現っていうのが大事というか。
ストリートのスナップにしても、きっとそれはあてはまるだろうな、とか。

簡単にいうと、今撮るその絵は最終どんなサイズでの作品としたいと思ってるのかってところ、油絵でいうと何号で絵を描き始めるのかってところ、そのへんを含めて、はじめに頭の中でエスキースしとけばそうそうおかしなことにはならないというか、それはキャンバスのサイズと絵の内容の関係と同じように、その絵が観られるという行為の背後にある環境や状況というものを含めて、パッケージングとして考えに入れておくべきなのかな、て気がした。

たとえば掛け軸の絵とその構図が素晴らしいからといって、それを天井画にすれば、あるいはその反対に、雲龍図のような大きな天井画をそのまま掛け軸用の絵のサイズにしてしまったら、やっぱそれはおかしいやろ?、みたいな。

で、やっぱあらかじめ観る人がいるところの広さや、観る場所からの距離が計算されているというか、はじめにそれが考えられたうえで決定されているサイズ、それと絵面の密度の関係ってのを無視しちゃいけないというか、写真がリアリズムを追っても、絵的にはそこから逃げきれない部分というか。
でもそれは観る人が何を感じとるかというのとはまったく別な事だけど。

人生こんなものか…(´・ω・`)

お買いもの忘れはないですか?

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