goods and life +

本体と付属品に必要なのは新しい名称と新しいイメージだ

本体と付属品…(´・ω・`)

一見、廃墟の様なカッコよさだけど…。
それは壁だけで、壁から向こうはなんと普通にちゃんとした住宅。
廃墟のようなカッコよさが本体なのか付属品なのか、それとも普通の住宅が本体なのか付属品なのかはよくわかんないけど、この存在感がなんかカッコいいなと思った。

生まれつきオン・ザ・レイルのひと以外のみんなの人生なんて、高層ビルディングではなくリフォーム住宅と同じようにどうせ継接ぎの建増しなんだし、柱すらいい加減かもしれない。
でも、それで色や味が出ればいいじゃん、な〜んてね。

御香宮神社にある天満宮のなで牛、なぜか両方とも角がないけどこれでいいのか?
まえからずっとだけど、アカン気がしてる。

きっとこっちの黒い方が中の人で本体。
もうだいぶ老いた感じで、全て悟りきった境地にいる様な表情や仕草が印象的で、正直、自分の方がきっと子供なんだなって気がしました。

猫の耳が V字カットなのは、不妊治療や去勢済みの地域ネコの印。
少しかわいそうな気もするのだけど、みててくれる人がいるということ。
でもこの子はもうそんなに長くは生きられないのがわかる。
わかったところで、気持ちに波を立てさせないでいてあげる事くらいしかできない。
邪魔はしない。

切り株のベンチの様な形態にされてしまった老木、今はキノコが本体に違いない。

蝉はどう見ても付属品なんだけど、ちょっと困った様子に見えて可笑しかった。

この時、この場所でものすごいことヤブ蚊にたかられて、即退散。
ちゃんとフォーカスする余裕もなく、白昼にこのヤバさはもう気が気じゃなくて、そもそも八島ケ池より上から三ツ辻へのルートはなぜか前々から相性がよろしくないのは自分でもよくわかってるはずなんだけど。
周りの竹藪でもどこでもヤブ蚊だらけで、どこかに止水域が多いのかな?
そして本体はこっち、保護色にもなってないんだけどのんびりしてる。

終の住処を見つけたのかもしれない年老いた猫があまり誰にも見つからないのは幸せ。

うるさい人にちょっかい出されたり、おこられたり怒鳴られたりしなくて済むものね。
きっとこっちが本体で、安心して魂が眠れる場所がここ。
でもこの子も、もうそんなに長くは生きられないのがわかる。
わかったところで何もしてあげられないけど、今の気持ちに同意はしてあげられる。

金髪の天使が本体、おっさんはもう付属品。
付属品の幸せは本体の幸せと同じくらいなのかな?、そうだといいんですけど。

時間ていうのは残酷で、ローリングストーン。
何かの記録に残っていなければ、だいたい誰だってそのうちみんなに忘れられていく存在。
覚えている人もだんだんといなくなっていくんだな、そしてそういう時はいつか一気に来る。

こんな幸せを幸せだと自覚していられるのは、どの時代もいつでも、下手するとその時だけの一瞬の記憶か、長くても生きている間だけの刹那に過ぎない。
な〜んてね。



以前、作品の中からの一部をライカ京都店のギャラリーで見せていただいたんですけど、今日、あらためて田沼武能氏の写真集、「戦後の子供たち」っていうのをじっくり数時間かけて鑑賞してみてた。
ギャラリーにはなかった写真もあって、考えさせられることがいちいち多くて。
そしてその時代の風景はその時代に生きていない自分にとって興味深くて。

冒頭の永六輔氏の寄せ書きでは、被写体の子供たちと同じ世代の自分たちだけが特別に大変な時代で、その世代への呼びかけや想いめぐる思いみたいな書き方だったような気もしたけど、でも、きっとそうじゃないんだな、この写真はあらゆる世代に印象強く語りかける力があるというか。

ちょい昔も今も、人が直面しているものやそのひと個人が向き合わざるを得ない宿命のような、突きつけられるような、それでも向き合う以外ない現実はたいして変わっていないというか、当時も今の世の中とあまり違わない気がしたんです。

確かにあの時代を乗り越えてこそ今があるってことを忘れちゃいけないんだけど。
むしろ今の方が物事が外側に剥き出しで見えにくいだけ、傍目に見え難くなって目立てないでいるだけなのかもしれない。


その後でチラ見した、ピュリツァー賞 受賞写真 全記録っていう写真と解説の本を見たらなんか吐き気を催した、でもこの本、書評だけはやたらといいんですよね。
ピュリツァー賞っていうのはアメリカの日刊紙で発表された写真の中から選ばれる賞なんですけど、ほとんどの写真がそれはそれはやたらと血生臭いもので。
まあ変容していく社会的な価値観と変わらない価値観を記録に残すジャーナリズム性はあるんだとは思うけど。


全ての事件のその原因、根源のとどのつまりはカネか権力、主張の争いに過ぎないというか、みんなたまたまその時の何かに命ごと巻き込まれざるを得なかっただけなのかも?って気もしたんですよね、サタニックっぽいというかなんというか。

人間ってのは、案外修正の効きにくいおぞましい存在なのかもしれない。
いつだって同じ事を繰り返す。

 


最近亡くなられたマルク・リブーはこう語っています。
I have always been more sensitive to the beauty of the world than to violence and monsters’ (Marc Riboud)
私はいつも、暴力とモンスターよりも世界の美しさに敏感であった。(マルク・リブー)


ピュリツァー賞のようなものの存在っていうのは、世界を驚かせる悲惨な衝撃写真になるよう願い期待するような気持ちを撮る人の心に紛れ込ませる魔物なのかもしれないわ。
それでもその時代の記録には違いないんだけど、でも、そういうのを流行言葉で云えば、悲劇ポルノ・感動ポルノの類なのかもね…。

時間は刹那なんだよ(´・ω・`)

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